読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

チラシの裏・・・的な。

チラシの裏にでも書いとけ! と批判されるような内容になるかも、と思い自虐的なブログタイトルにしました(笑)。

立憲主義

改憲派といえども避けて通れないのが"立憲主義"である。いや、改憲派なればこそ避けて通れないというべきか。しかしながら不勉強にしてよく知らなかったので大雑把ではあるが調べてみた。参考にしたのはWikipedia江川紹子氏による樋口陽一東大名誉教授へのインタビュー記事。


立憲主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9


立憲主義」ってなあに?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150704-00047228/


歴史的には、イギリス・フランス・ドイツでそれぞれ微妙に異なる経緯を辿ってはいるようだが、王権を制限し国民の権利を確立する為に考えだされたのが立憲主義だ。何故そういった流れになったのかも興味ある話題だが、それを知るためにはヨーロッパ史と社会思想史の深い世界に入っていかなければならなそうなのでここでは触れない(笑)。
では、王の居ない民主国家で何故憲法が必要なのか。それについてはWikipediaよりトーマス・ジェファーソンの言葉を引用しよう。

われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。

— 1776年ケンタッキー州およびバージニア州決議にてトーマス・ジェファーソン

自分なりに解釈するとトーマス・ジェファーソンの言いたいことは、"人は間違いを犯す"ということに尽きるだろう。それは個人であっても集団であっても変わらない。我々一人ひとりが良心にしたがって投票行動をしても、その選択が結果として間違っていることがあるかも知れない。あるいは悪意ある人物に大勢の人が騙されるかも知れない。だから、民主主義であるからこそ間違った選択でも最悪の事態にならないように、軌道修正が可能なように、権力に制限をかけておく必要があるということだ。
これは決して他人事ではない。つい数年前極東の某国におかしな首相がいたではないか。あのような間違いを二度と起こさないと誰が言えるだろう。


これを樋口陽一名誉教授は別の切り口で解説してくださっている。引用しよう。


ここに一本の物差しがあると考えてみて下さい。その一方の端が純粋なデモクラシー、もう一方の端が徹底した立憲主義です。それぞれの国で、国民が知恵を出し合い、歴史や社会的な条件を踏まえて、この物差しのどこかに均衡点を見つけるわけです。

立憲主義を民主主義の対立概念として捉え、その均衡点で政治的決定を下すことで安定した社会を実現しようということだろう。言い方を変えれば、民主主義の不完全さを補うのが立憲主義であり、民主主義と立憲主義は車の両輪とも言える。どちらかがかけてもダメなのだ。
若い頃に呉智英氏の著作の影響を受けた者としては"民主主義の不完全さ"を強調したいところでもあるが。


神ならぬ人が不完全なことは自明である。そしてその不完全な人間が作った民主主義もまた不完全である。立憲主義の必要性はそこにあり、民主主義とそこから生まれる権力はジェファーソンの言うように猜疑を持って建設されねばならない。憲法改正の際にはその視点での検証が欠かせないと思う。